再読してみた。

シュンポシオン横浜」がいよいよ今週末となった。
ポジョションペーパーも平ちゃん(id:ai247)のお力添えで何とかまとまってきた。今回はこういったものを作る時のつくづく自分のセンスの無さを実感した・・・

で「シュンポシオン」に向けてもう一つ準備をしておこうと、中山さんの「横浜逍遥亭」に巡り会うキッカケとなった「ウェブ時代をゆく」と今年の春に発売された「私塾のすすめ」を読み返してみた。
こうやって改めて読み返してみると、前回読んだ時には気にならなかったところ、見落としていたところが幾つか目に付くようになる。当初と現在とでは読んでいる私の関心事や心情に変化があるせいかもしれないが、見ていなかった箇所、見えなかった箇所が見えてきた。
おかげで違う“折り目”が増えた。

ちょうど今、“子育て”“教育”という事に関心が向いている時期でもあったので以下の文章には考えさせられた。
齋藤孝氏が言っている。

子供というのは、大人があまり干渉しないと個性が伸びる」という考え方が、大きな位置を占めてきました。授業でも、トレーニングをするということが嫌われて、算数でも一問題を出して「考えてみなさい」というようなやり方も行われています。ところが、「考えてみなさい」と言われたとたんに、ほとんどの子は考えるのをやめてしまう。「子供というのは、問題を与えて時間を与えれば考えるものだ」という自発的思考の前提というものが、僕は間違った前提ではないかと思っています。
私塾のすすめ」P.62

そして更に家庭での教育に関しても次のように述べている

家庭教育はというと、親も子どもにあまりうるさく言いません。かつての親のように、壁となって立ちはだかるような、禁止事項の権化ではない。フロイトが言うスーパーエゴ(超自我)の役割から親が逃げ出してしまった。「〜するな」「〜すべき」というような圧力をかけずに自由にのびのびやらせると、その後、活力ある自己管理のできる大人になっていくという、一種の現代性善説で家庭教育が行われてきたといえます。本能的欲望に、超自我が制限を適度にかけることで自我が安定するわけですが、戦後生まれの親たちが、アメリカの本来のセルフメイド的な「自立」をぬきにした形で、アメリカの自由な雰囲気だけを輸入してしまって、自由放任にしておくとうまく育つと勘違いしてしまった。
私塾のすすめ」P.63-64

なるほど、思い当たるところ。共感できる部分が多々ある。
上にあるような
「子供というのは、問題を与えて時間を与えれば考えるものだ」
という事はついつい思い込んでしまうことだなと感じる。
我が家の長男もちょうど4歳になったばかり、保育園にも通っているせいか毎日色々と新しいこと(良いことも 悪いことも)覚えてくる。そしてある程度しっかりとした「自己主張」「自我」をむき出しにして親に向かってくる、そして大いに多感だ。だから妻と二人、常日頃考えることが多い。私は上手くないのだが「どのように叱り、どのように教育するか」を考える、ちなみにどうやら私は単に高圧的に一方的に怒っているだけだそうだ。
難しく考える必要はないのかもしれないけど、なんだか悩んでしまう内容だ。

そしてもう一つ気になる部分をあげておく。
同じく齋藤孝氏の話だが「ノーと言われたくない日本人」という事に関連して次のように言っている。

根本的な安心感というものが、今までの成育暦のなかで少ないのかもしれません。完全に受け入れてもらえている、だから、何をやってもいいんだよという安心感がまずあって、それが共有されたときには、いろんなことが言える。フロイトも言っていますが、母親に愛されたなどの、深い自信みたいなものが、その後のチャレンジをしていく勇気につながっていく
私塾のすすめ」P.133

“愛情”なんですね。そして“寛容”な心で相手を受けとめてやる。何があっても拒絶・否定をしない。
日常において、つい“忙しいから”といって子どもの要求や思いをないがしろにしてしまったり、後でよく考えると大人にとっては何気ない一言でも子どもにとっては、その子の行いを“全否定”してしまうような発言をしていることもある。気をつけないといけないなと改めて感じたのだ。

読み返したキッカケは別の理由からだったが、今の私に一つの考えを示してくれるものに出会えた。
今後の課題が見えた。