恐慌と不安とファシズム

テロリズムの罠 右巻 忍び寄るファシズムの魅力 (角川oneテーマ21)の中で5章から7章において上記題名「恐慌と不安とファシズム」として書かれている部分がある。
そこに書かれていることから“メモ”として少し抜き出しておく。

歴史の転換点では、人々を刺激する象徴的な言葉が生まれてくる。過去10年間の日本では「改革」という言葉が魔術的な力をもった。改革という名の新自由主義の導入によって、日本社会は徹底的に分断され、日本人は同朋意識を失いつつある。この状況で、分断された個人は不安を抱く。こういう個人が多数いる。逆説的だが、不安によって、日本人が再び連帯感をとりもどす可能性がある。まず、「不安の共同体」として日本社会が再生される。
P.135

アトム的ってことですね。常に不安が付きまとう毎日・・・
気をつけないと下を向いて歩いていることが多いかもしれません。

「永遠の命」を獲得することがキリスト教の目標である。しかし、人間には死がある。キリストは死人の復活を信じろと主張するが、なかなかそれが人間には受け容れられない。そこから不安が生まれる。
 これと同じように資本主義システムも「永遠の命」を求める。労働力の商品化さえ実現してしまえば、資本主義は景気循環を繰り返しながら永続するように見える。確かに、労働力しか商品化することができないプロレタリアート(賃金労働者)を前提にするならば、資本主義は永続する。しかし、そこには恐慌という裂け目がある。
P.144

資本主義の「永遠の今」をとらえることに特化しなくてはならない。そのことから、逆説的に経済ではない論理で動く人間の社会に関する想像力が生み出さるのである。恐慌は、「永遠の今」の現象形態の一つだ。過去の生産様式では資本が過剰になり、資本主義的生産の意味がない(利潤がもたらされない)という力と、未来から新しい生産様式を採用することで個別資本が超過利潤を得るという力が、現在のこの瞬間にぶつかり合って恐慌が起きるのだ。
 恐慌は、これまで円滑に進むと観念されていた資本主義システムの「裂け目」をしめすのである。この「裂け目」から、逆説的であるが、われわれは資本主義以外のシステム可能性について想像することが可能になる。「裂け目」に直面し、モノがたくさんあるのに人々が困窮するのはおかしいということに人々は気づく。そうでない限り、われわれは資本主義を、人間の意志から独立した自然と勘違いしてしまう。恐慌は、我々が置かれている状況を、客観的に認識することを可能にする好機である。
P.146-147

私にとって“資本主義”とはただの言葉でしかなく、資本主義というシステムは考えるまでもなく常に傍に存在するものであるし、それ以外のシステムを言葉では知っていても実際には想像するだけで理解することは困難だ。
上に列記した文章は“資本主義”に対する今までとは違った視点を与えてくれた。
まだ何度か読む必要がありそうだ。