恐慌と不安とファシズム その2

昨日に引き続き気になった部分を抜き出してみる。

実際に共同体と共同体の間で商品が出現するときには、必ず貨幣(あるいは一般的等価物)が用いられていたはずだ。ここで重要なことは、交換が必ず貨幣を生み出すということだ。

 貨幣所有者はそれを常に商品に交換することができる。それに対して、商品を所有しているといっても、貨幣に交換できるという保証はない。商品が貨幣に換わるためには「命がけの飛躍」が必要とされる。しかし、日常的に商品と貨幣における非対称性は忘れられてしまい、商品はいつでも貨幣に交換されるという擬制によって資本主義社会は成り立っているのである。この擬制が崩壊すると資本主義システムは崩壊する。
 結論を先取りするならば、この擬制が崩壊しても、それを資本主義システムの中で解決するために必要とされるのが恐慌である。恐慌は資本主義の救済手段なのである。前章「恐慌と不安とファシズム」(上)*1で筆者は、信用の崩壊が恐慌を結果し、それが現代的恐慌であるという議論を出した。「信用の崩壊」と、ここで言う「擬制の崩壊」は同じ事態を別の側面から見たものだ。つまり恐慌は、「信用=擬制」の崩壊が招く結果であると同時に、崩壊の解決策でもある。恐慌は、現行資本主義システムの枠内で資本主義を救済するという機能を果たす。恐慌は崩壊の結果であり、崩壊の弥縫策でもあるという両義性を押さえておくことが重要だ。もちろん恐慌という形での資本主義システムの救済の過程で、人間がどのような状況に陥れられるかについて、資本主義は基本的に無関心である。それは資本主義社会が疎外された社会であるから、当然のことである。

P.152-153

貨幣の増殖を目的とすることで、貨幣は資本に転化する。資本主義社会の主体は資本である。もちろん資本は資本家という人間によって運営される。しかし、そこで資本家は人間としての良心とは別の資本の自己増殖の論理に基づいて思考し、活動する。そこでは、資本に対する物神崇拝が起きる
 資本は貨幣のみではない。価値増殖を目的として買い入れる労働力や原材料、機械なども資本である。また、労働者によって作り出された商品も資本だ。資本家にとっては商品の使用価値が重要なのではなく、あくまでも価値、すなわち数値に置き換えることができる貨幣価値が重要なのである

P.154-155

昨日も書いたが知っているようで知らない“資本主義”、資本主義は当たり前すぎてそこに含まれている色々なことに気がつかないんだという事が解る。

*1:この著書における第5章である