恐怖と不安とファシズム その4

上記題名でメモを残すのは今日で最後です。

「private/簒奪」の思想―資本主義の根源

私的、すなわちプライベート(private)という発想に暴力性が潜んでいることを滝沢*1は明らかにする。ラテン語のprivereは、他者から簒奪して自分のものにするという意味である。他者の所有する労働力を簒奪して、利潤を獲得しようという発想の根源に、人間と人間の連帯性を破壊する暴力が潜んでいるのである

P.167

一人の人間に死という制約があるように、一つの社会にも制約があるのだ。資本主義社会の場合、恐慌という制約がある。人間にとっても死と同じ意味を、資本主義社会にとっての恐慌がもつ。死の前で人間が不安をもつように、恐慌の前で資本主義システムは不安を感じるのだ。その不安は、存在自体を破壊する本質的な不安である。いかなる資本主義社会もこの不安から逃れることはできない。それはいかなる人も死から逃れることができないのと同様だ。不安を不安として正直に認め、不安と向き合うことで「簒奪の思想」から抜け出す機会を摑むことができる

P.168

「不安を不安として正直に認め、不安と向き合うこと」これってとても大事なことだと考える。普段の生活の中、生きて行く中で自分の周りの“不安”を認識していくことは重要な要素だと思う。

人間も資本主義社会も、普段は意識しないが、不安の上に存立している。危機的状況に直面すると不安の姿が見えてくる。不安に耐えることができない人々は、テロルによって不安を一気に解消しようとするが、それは不可能だ。テロルが自らに向けられれば自殺になる。テロル、自殺は、不安に対する偽りの処方箋だ。
 不安に対するもう一つの偽りの処方箋がある。国家を強化する運動に自らを埋没させることで、不安を解消しようとするファシズムの道だ。人間の解放は、暴力装置である国家に依存することによってではなく、人間によってかちとられる必要がある。国家ではなく、人間と人間が相互に依存する社会(共同体)の力によって、不安は解消されるのだ。

P.177


都合、4回に分けて[メモ]として残した。一読しとりあえず気になった部分だけなので、まだ自分の物にはなっていない。

*1:滝沢克己http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%BB%9D%E6%B2%A2%E5%85%8B%E5%B7%B1&oldid=21972945