日本人へ 国家と歴史編

日本人へ 国家と歴史篇 (文春新書)

日本人へ 国家と歴史篇 (文春新書)

面白かったです。
まぁ、興味を持って購入しているのですから読んで「面白い」と思うことは当たり前なのですが・・・
文藝春秋に連載掲載されたものを一冊にまとめた、ということなので書かれたその時々に話題となっている事に対してローマ在住の著者が、著者独特の語りで思うところを書き進められています。
中々、国内に居ては見えないこと、国内だけで頭を使っていては思いつかない考えが書かれています。
それらがとてもグッドでした。

今回目を引いた項目の中に
「“仕分け”されちゃった私」
と題した項があります。その中で作家としての著者が出版不況について書いているところは気になりました。

書籍とは、広告が一つも掲載されていないことからしてもすこぶる原始的な媒体であり、それゆえに広告の減収による影響は受けないはずだった。ところがそうではなかったのだ。なぜなら、多くの出版社は雑誌も出している。その雑誌が広告が減って赤字に転落したおかげで出版社全体が危機感に陥り、それが、赤字にしていない著者にまで及んできたというわけである。
 具体的に言えば、初版の部数の大幅な削減。そして、重版にすると決めた場合でもその判断は以前より段ちがいに慎重に下されるようになり、しかも重版の部数でさえも少なく抑えて様子を見る、ということになる。まるで「仕分け」で、著者や作品の別などおかまいなく、機械的に「縮小」と判決されたかのようではないか。

とあった。
そして続けて

初版で得る印税はこの種*1の人々にとって、唯一としてもよい確定財源である。作家を専業にしている者が、予測の立たない重版による印税までもあてにして創作プランとしたら、その人はもうプロの作家ではない。予想した収入が入ってこなくなれば別の仕事をせざるをえなくなり、そうなってはこれ一本に集中することも無理になり、結果として恥ずかしくない作品を世に問うことはできなくなることを、肝に銘じて知っているからである。そして、この道の果てに待つのは、今以上の日本人の本離れでしかない。

ちょっと今の日本社会を見ていると。報道・情報番組などにコメンテーターとして「作家」という人がよく出ているなと思い出した。
上に
「初版で得る印税はこの種の人々にとって、唯一としてもよい確定財源である。」とありますが、以前「ローマ人の物語」の完結記念講演会に行った時に、会場に現れた著者が会場に居た私たちに先ず言われた言葉が
「これまで作品を買って読んでくれてありがとう」
でした。私たちが著作を購入することで作家(特に書き下ろしで書く作家の方)は、質の高い執筆活動を続けることが出来る、だから15巻に及ぶ「ローマ人の物語」を最後まで書ききることが出来たのは「皆さんが買ってくれたからですよ。」ということを言っておられました。

そして「仕分けされた・・・」の項の最後はこう締めくくってあります。

出版界のリスク回避の志向を知って、それならば出版される本の数も減りますね。と言う人がいたとすれば、その人への答えはノーである。それどころか、ますます増えるだろう。ただし、短期間にモトが取れるものだけが。
 そして、それらは次の一色に染まっていくだろう。つまり、読む愉しみや知的満足を与えてくれう本よりも、読めば不安を解決してくれると思える本の一色に。なぜなら人を本屋に走らせるのは、愉しみへの期待よりも、不安解消への期待のほうであるのだから。たとえそれを読んでも、真の解決にはまったく役立たなかったとしても。
 私自身に関してならば、今後とも同じやり方で作品を書きつづけるだろう。なぜならば、ここに至ってはもはや誇りの問題であるからだ。しかし、新人や中堅の作家たちはどうするのだろう。専業はあきらめて、兼業に転身するのだろうか。そしてその結果、ますます本は売れなくなり、出版業界も、ますます縮小していくのであろうか。ちょっとした思いつきを深くも突きつめずに早々と書く物書きや、不安解消を一手に引き受けたとでもいうような教祖型の物書きと、それを安価で出版した会社だけが一人勝ちする中で。

どれくらい当たっているのだろう。確かに書店を徘徊してみると「〇〇に勝つ方法」「△△できる人は□をしている!」みたいな表題の本を沢山みかけます。

この先「本」はどうなっていくのでしょうね。
今後には、期待と不安が半々です。

*1:専業作家のことです