確信犯的な無神論者は別として・・・

昨日に続いて「ローマ人への20の質問」からのメモです


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確信犯的な無神論者は別として、多くの人にとっての神は、その人の最も重要な何か、である場合が多い。それゆえに、その人の信仰する神を認めるということは、その人の存在を認めるということにつながります。ところが一神教にとっては、自分たちの信ずるのが神であって、他の人々の信ずる神はかみではない。認めたら一神教ではなくなるので、一神教者がこう考えるのも当然です。しかし、結果としては宗教をともにしない人の存在は認めないということになりかねない。聖戦思想も十字軍精神も、一神教が介在する争いはすべて、一神教ゆえに不寛容にならざるをえないこの心情から発しているのです。神はわれらとともにある、と思えば、相手方にいるのは悪魔になってしまうわけですから。
 多神教ではこうはならない。争いはしても、双方に神がいる。ギリシアとトロイの戦争を描いたホメロスの叙事詩「イーリアス」では、神々も、ギリシア側を応援する派とトロイ側を応援する派に分かれる。一神教では、このような文学作品は絶対に生まれないのです。このギリシア人は、ゼウスをはじめとするオリンポスの十二神に神像を献ずるときも、神々の最後に必ず、いまだ知らざる神へ、と銘打った神像を置くことを忘れなかった。いまだ自分たちが知らない真理があるかもしれないと、彼らは考えていたからです。

「その人の存在を認める」ということはとても大事です。
最近は相手を言葉でも、力においても相手を捩じ伏せ、排除してしまうということが個人単位でも、国家単位でも主になっているように感じてしまいます。
一人では、自分たちだけでは生きていけません。例え相容れない相手であっても認め、尊重し合うことが大切です。

「一神教が介在する争いはすべて、一神教ゆえに不寛容にならざるをえないこの心情から」
感覚的に理解することはできません。「無神論」という訳ではないのですが、自分自身を含めて周囲にそういった考えの持ち主、実行している人物がいないので分からないですね。

宗教・信仰は理解するのに時間がかかります。