目についた言葉 

すべての人間は平等に、自らの言行の自由を謳歌できるわけではない。社会の下層に生きる下賤のものならば、怒りに駆られて行動したとしても許されるだろう。だが、社会の上層に生きる人ならば、自らの行動に弁解は許されない。ゆえに、上にいけばいくほど、行動の自由は制限されることになる。つまり、親切にしすぎてもいけないし憎んでもいけないし、何よりも絶対に憎悪に眼がくらんではならない。普通の人にとっての怒りっぽさは、権力者にとっては傲慢になり残虐になるのである。
ユリウス・カエサル ルビコン以前(上)P.179 カティリーナ裁判でのカエサルの言

上に行くと責任は増える。増えた責任に応じて、それに見合った立ち居振る舞いが必要になってくる。
それは経験し、感じないと解らないな。

どんなに悪い事例とされていることでも、それがはじめられたそもそもの動機は、善意によったものであった。だが、権力が、未熟で公正心に欠く人の手中に帰した場合には、良き動機も悪い結果につながるようになる。
ユリウス・カエサル ルビコン以前(上)P.181

「どんなに悪い事例とされていることでも・・・」っていうところはとても大事だと思う。
最初から悪く導いてやろうと思ってやっている人はいない。ただそのやり方が不味かっただけなのだ。
今度はそんなことにならないようにしてほしいな。