もう一度考えてみよう

今朝の中山さん(id:taknakayama)さんのエントリーをキッカケに「介護」ってものを考えてみた。
沈黙の主張 - 横浜逍遙亭

職場では多くの人の「介護の現場」をみる。そこには本当に色々な問題があるし、色々な方がおられる。
明るく、楽しく(と言ったら語弊があるかもしれないが。。。)前向きに家族の介護をされている方もおられるが、多くの場合はそうではないようだ。

家族の中で「介護」が必要となる方が出てきた場合、それによって今までの生活は変わってしまう。同じようにその個人にたいして家族の助けが必要となるという点では“子育て”も似ている部分があるが、子育ては助けが必要になる日が来ることが解っているから心の準備と覚悟が出来ている(はずだと思います)。

しかし“介護”ってのはある日突然に「ドンッ!!」っとやってくる可能性がある。
もしくは徐々に機能面が低下されていき、その過程をみていたならばある程度その日が来ることが覚悟できているのかもしれません。
もし覚悟無くその日が来た場合、勿論悩むでしょう、そして短期間の内に覚悟ををもって「介護の現場」へと身を置く事になっていく。最初は元気もやる気も覚悟も十分に有るからどんどんやっていけるはず、だけど先は長い・・・。
ゴールは近いのか、遠いのか誰にも判らない。だから自分の生活・人生において介護のペース配分が判らなくなってくると思う。で、判らなくなるこの辺りから先で段々悩み事が多くなってきて、所謂“介護疲れ”ってものがでてくるのだろう。そこで大切になってくるのは、ありきたりな言い方だけど「一人で悩まない」ってことだ。自分が持っている悩みや苦労、心配事は当事者にしか理解できないことばかりだと思う、例え相手に話しても十分の一も解ってもらえないかもしれない、しかし「一人で悩まない」ことだ。これは日々、職場で皆さんと接していて大いに感じる。一人で抱え込んだらシンドイだけ、少しでも話を聞いてもらえる「誰か」を見つけることが長い「介護の現場」では重要だと思う。10人に話をしたら少なくと1人は理解を示してくれる人が必ず居るはず。少しでも自分の話を聞いてもらえる、理解してもらえる人に出会えたら心の中に在る重たいもの、身体にかかっているズッシリとしたものが少しは「スッ」とすることができるはず・・・
そうすると「介護の現場」における自分のかかわり方は大きく変わってくるんだと私は考えている。

とまぁ、日頃みていて感じることを書いてみた。
しかしながら私自身にはまだ当事者になる覚悟は出来ていない。その日がそう遠くない内に来ることは解っているはずだし、現場も見ているから覚悟をしてなきゃなんないはずなんだけど、私にとって「介護の現場」は仕事の場であって、自分が当事者とはならないまだ遠い現実。。。

覚悟していかんとならんなぁ