キリスト教の人間観について


またここ(ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき (朝日文庫))から

「宗教」の経典と聞くと、とても崇高なものに思えるが、少しづつ読みといてみると、そこには現実味のある、人間臭い人間が描かれているのが面白い。


佐藤:本来、キリスト教の考え方からすれば、人間の悪行が積み重なると、アップダウンクイズで誤答が続けば最後にドーンと落ちるように、人間は滅亡しているはずなんです。しかし、人間は神様との関係がまずくなる度に、神様がノアに対して結んだ約束*1を持ち出します。「俺たちが何をやっても滅ぼさないって言っただろ。約束の虹を架けただろ」と。過去、神様が人間に対して譲歩したところにつけ込むことによって、人類はいままで持ちこたえてきました。ひとつの言質を梃子に利権を広げていくやり方はヤクザみたいですね。どういうことかというと、人間には「原罪」の意識があるから、悪いことをするものだと、こういう自覚はあるんです。ただ、その悪行が原因で、神様から罰を下され滅亡させられるのはゴメンだよと。だから人間は、神様との交渉に負けないよう屁理屈をこね、大嘘をつく訓練をシステマティックにしなければならないと考えるのです。転倒した理論ですけれど。それでユダヤ・キリスト教文化圏の人々は交渉術や論理学に非常に敏感になってくるんですね。
P.41 P.43


「神様との交渉に負けないよう屁理屈をこね。。。」
って面白いですよね。

ノアの方舟の交渉もそうですし、ソドムとゴモラの時の神との交渉術も面白いものです。

神に負けない交渉術、素晴らしいですね!

*1:大洪水の後、舟をノアは次のようにした〈ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げものとし祭壇の上にささげた(創世記8 20)〉神様はその〈宥め(なだめ)〉の香りをかいで、こう言う〈「わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」(創世記8 21)〉その約束として〈「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々(よよ)とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。」(創世記9 12〜13〉