イスラム教にとっての罪

ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき (朝日文庫)より

佐藤:構造的にはキリスト教と似ていますが、イスラム教は性善説に立ちます。
魚住:ということは「原罪」意識がない?


佐藤:罪はあるんですが、穢れくらいなんですよ。イスラム教における人間のでき方は、旧約聖書の記述とほぼ同じです。神の言いつけに背いて楽園から追放されてしまうところも同じ。ところが追放されるときの事情が旧約聖書と違います。実は、追放される前にアダムは神と和解しているんですね。
〈しかし(その後)アーダムは主から(特別の)御言葉を頂戴し、主は御心を直して彼に向い給うた。まことに主はよく思い直して給うお方。主は限りなく慈悲ぶかいお方 (コーラン「二 牝牛」35)〉
ですからその罪は彼らの子どもたちには及ぶことはありませんでした。その子どもたちは「いやしい水」からできています。
〈その後裔をばいやしい水(精液)の精から創り出し (コーラン「三二 跪拝」7)〉
そこにはある種の穢れを意識を見て取ることはできても、それは洗えばとれてしまう程度のものだといえるでしょう。やり直しが可能だということなんです。


魚住:日本人の「水に流す」という感覚に近いんですか。


佐藤:そうです。神道の考え方に近いと思います。この感覚は世俗化された現代の日本人にも残っています。大晦日のNHKを思い浮かべてください。紅白歌合戦でバカ騒ぎしていたかと思ったら、十一時四十五分、急に静かな山寺の映像に変わり、「ゆく年くる年」が始まる。これは、一年の終わりに、人為的にカオス(混沌)をつくりだしたあと、静かなコスモス(秩序ある世界)のもとで生まれ直す、ということです。穢れを祓ってしまえば「なかったこと」にできるということです。反中国、反韓国的感情を抱く国会議員や識者がいう、日本は侵略や植民地支配について「謝罪したからいいじゃないか」論に代表される歴史認識の問題の中でも重要な点のひとつがここだと思います。


魚住:そうですね。しかし、キリスト教も懺悔すれば許してもらえるのでは?


佐藤:キリスト教の場合は、悪いことを「忘れない」けど「許す」か、「忘れない」し「許さない」なのです。いずれにしろ悪いことは「忘れない」のです。そこがイスラム教や神道との違いです。
P.44-P.45