時を越え、場所を越え、そして人種を越えても

先日から佐藤優氏の「私のマルクス」というのを読んでいる。読了にはまだまだなのだが、今日読んだところで気に入った箇所があったので記録しておく。

その気に入った箇所というのは旧約聖書の中の「コヘレトの言葉(伝道の書)」の部分なのだが、キリスト教徒ではない私だが、これは共感できとても大事にしたいと思う。
長くなるがそのまま記す。

何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時
保つとき、放つ時
裂く時、縫う時
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時。


人が労苦してみたところで何になろう。
わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されない。
わたしは知った
人間にとって最も幸福なのは
喜び楽しんで一生を送ることだ、と
人だれもが飲み食いし
その労苦によって満足するのは
神の賜物だ、と
わたしは知った
すべての神の業は永遠に不変であり
付け加えることも除くことも許されない、と。
神は人間が神を畏れ敬うように定められた。
今あることはすでにあったこと
これからあることもすでにあったこと。
追いやられたものを、神は尋ね求められる。


太陽の下、更にわたしは見た。
裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。
わたしはこうつぶやいた。
正義を行う人も悪人も神は裁かれる。
すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある。


人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、すべてはひとつのところに行く。
すべては塵から成った。
すべては塵に返る。
人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降りると誰が言えよう。人間にとって最も幸福なのは、自分の業によって楽しみを得ることだと私は悟った。それが人間にふさわしい分である。
死後どうなるのかを、誰がみせてくれよう。(「コヘレトの言葉」3:1−22)
(私のマルクス P.35−P.37)

これを一読して私の脳裏に浮かんだのは、以前から私が日頃大切にしている次の一文であった。

花ひらくとき蝶来る 蝶来るとき花ひらく
花心なくして蝶を招き 蝶心なくして花を尋ぬ

である。
これは間違ってなければ、「良寛」の書いた一文であるはずだが、方や中東で、方や日本で書かれたものだ。時代も場所も人種も違うのに語りかける内容にはすごく近いものを感じる。人間、行き着くところはやはりいつでも一緒なのだろうか。
大事な大事な出会いであった。