キケロと文学

キケロー弁論集」の中にキケロが文学について語っている部分がいくつかあったので記録しておく。

“ピーソー弾劾”の中でグラティウスに対する言葉の中からです。

われわれの心をさわやかにし、論争に疲れたわれわれの耳に憩いを与えてくれるからなのだ。毎日これほど多くの語るべきことがあるというのに、われわれが文学によって精神を鍛えることなしに、言葉の用意が十分できているというようなことがあると君は思っているのか。また、文学によって気分をリフレッシュすることなしに精神がこれほどの緊張に耐えることができると思っているのか。
P.126

そして次のようにも言っている

書物にはあらゆる賢者の声が、昔のあらゆる模範が満ちている。この模範も、もし文学の光が当らないならば闇に埋もれたままになっているであろう。ギリシアやラテンの作家たちは、われわれが見つめ、かつ見習うようにと、どれほど多くの限りなく雄々しき人々の姿を残してくれたことであろうか。わたしは国政に従事するとき、そのような雄々しき姿を念頭に置き、その優れた人々を観想することによりわたしの心を培った。
P.129

続いてこんなことも言っている

文学に楽しみだけを追求することにしても、精神のこの気晴らしをたいへん人間的で自由人に値することだと諸君は判断されるであろう。他の学問は、どんな時にも、どんな年齢にも、どんな場所にも適当というわけにはいかない。しかし、この学問(文学)は、青年の精神を研ぎ、老年を喜ばせ、順境を飾り、逆境には非難所と慰めを提供し、家庭にあっては娯楽となり、外にあっても荷物とならず、夜を過ごすにも、旅行のおりにも、バカンスにも伴となる。
われわれ自身、文学に触れたり、文学を味わったりできなくても、文学を尊重すべきであろう。他の人にそれを見る時でも当然そうすべきなのだ。

P.130ー131

文字を読む、過去を知るって事は大切なんだなと感じる。
古代ローマ、偉大なる知識人であったキケロも書物から先人の知恵・教えを学びそれを自分の人生に役立てたのだった。
どんなに時が経っても、どんなに文明が高度化しても人が成長する為に必要な事柄はいつも変わらない。
読んで、読んで、そしてまた読んで、自分で消化し尽す。これが大事なんだろう。
そして得た知識を元に新しいことを創り出す“知力”が人には必要なのだろう。