マングローブの沼地で ~東南アジア島嶼文化論への誘い~ その2!!

ようやく読み終えました。
途中何度か他の雑誌等に浮気をしたのですが、今回は諦めずにまた戻って読み終えた。

この一冊は今現在あるフィリピンやインドネシア周辺の社会情勢・政治情勢を理解する上でとても基本的なことを教えてくれる一冊だと感じた。作中で著者が言われる通り私たち日本人の感覚から理解しえないような形で地域社会が成り立っているのだ。
だから、今起こっている事件や出来事もこの一冊が語る内容を頭の片隅においておくだけで理解の度合いが変わって来るように感じる。

作中にこんな言葉あった

歩いていると、さまざまなことを発見し、あれこれと考えるものである。
P.331

確かに散歩などをして歩いていると色々と目に入ってくる。それは自分が望んで見るものであったり、向こうから飛び込んでくものや様々である。そして一づつ考える。

歩くことで、少しづつ自分が変わっていっているのを感じる。歩くのは一歩づつだから、変わるのもゆっくりである。変わったといっても別にたいそうな変化ではない。
P.341

感じるもは増える。

そして著者のそういった“歩く”ことによって研ぎ澄まされた感性が感じ取った東南アジア諸島の風景の描写。
私もいつかこんな文章を書けるようになりたいものだ

夕陽に輝く山村に桃源郷を見たこともあった。南スラウェシの漁村シンジャイから岬一つを越したブルクンバへバスで抜けた時だった。

中略

棚田は山の斜面を等高線に沿って削りとっていくので、一枚一枚の田は千差万別である。瓢箪を縦に割ったような、なだらかな曲線の畦が美しい。この棚田は、一望はるけき平地水田とは違った豊かさの印象を与える。
棚田と入れ込みにクローブナツメグの疎林があった。金木犀に似たクローブの樹は、浅緑の葉を夕陽にきらきらと輝かせている。おりしも採取期で、道端の筵にあの釘の頭のような蕾が乾かしてある。採ったばかりの浅緑から乾ききった深紅まで、道にだんだら模様が描かれる。
斜光で、樹木、家、畦、どんな僅かな立ち上がりも影をつけ、景観は立体感を増す。陽の差す面は、黄金から暗紅へと彩りを変えていく。そんななかをバスは登っていくのだった。峠の山村にはもはや棚田は無かった。暮れなずむ薄闇のなかにコーヒーの花が白く浮き上がっては消えた。馨しい香りが車内にも漂った。
あの美は、夕陽の斜光の創りだしたものである。レヴィ=ローストもいっている。「あかつきは一日の始まりに過ぎないが、たそがれはその繰りかえしのようなものである」(『悲しき熱帯』)
同じ感動を私は、夕陽の荒野や浜辺でも感じるようになった。季節、時刻による光の微妙な味わいをいつしか私は忘れていた。それが蘇ってきた。

熱帯の住人が太陽の中天にかかる真昼に長い休みをとるのは、酷暑を避けるためだけではない。万物が輝きを増す夕暮に労働の時をもちたいからなのである。レヴィ=ストロークに倣っていえば、日没の美に、日々の繰りかえし、つまりは人生と歴史を感じているのかもしれない。
P.342-343

夕陽は美しく感じる。夕陽に照らされたものは美しく見える。
だから私が過去に撮った写真も夕陽のものが多い。

最後にこの言葉で締めたい。20年たった今だからこそ生きてくることばだ。

人類が生まれてからこのかた、私たちは地球を加工して生きてきた。加工の利益は、人類に平等に分配されず、現場にひどい被害を与える。産業社会の先進に住む私たちは、モノの不足もカネで解決できると思っているし、四季の移り変わりに敏感だと誇りながら、実は朝夕の日ざしの違いさえ識らなくなっている。地球の加工が人類の暮らしの宿命だとしても、そこに節度と智慧を加えるのが残された道ではないのか。
P.209-210