感覚の違い

ローマ人の物語」の新しい文庫が発売されたので、またノンビリと読みふけっています。
帝国末期の話なので、読んでいると寂しくなってきます。書かれていることや、帝国末期の状態の説明を読んでいると最近何処かの国で起きているような状態と似ているようであり、過去の遠い国でおこった出来事として他人事のように考えることは出来ません。

ローマ人の物語〈35〉最後の努力〈上〉 (新潮文庫)

ローマ人の物語〈35〉最後の努力〈上〉 (新潮文庫)

さてそんな上巻の中にギリシア・ローマの多神教とユダヤ人やキリスト教徒の一神教との違いの説明が書かれている部分がありました。
私たち日本人は、“仏さん”も“神さん”も“御先祖さん”も何でもアリで何でも拝むことが多いです。拝む“仏さん”も“神さん”も色々と数多くおられます。だけど、一神教だとそうじゃない、拝む対象は唯一絶対の「神」ただ一人。
この唯一絶対の「神」ってのは普通の私みたいな日本人には感覚的に分からんもんです。
その辺りを作者の塩野氏は次のように説明していました。

ギリシア・ローマの神々とユダヤ教やキリスト教の神とは、性質(キャラクター)が完全に違うのである。
ギリシア人やローマ人の神々は人間を助ける神々だが、ユダヤ人やキリスト教徒の神は、人間に命令する神である。ギリシア・ローマの神々は人間を管理するなど考えもしない神々だが、ユダヤ人やキリスト教徒の神ならば、人間に真の信仰の道を指し示すという言い方にしても、人間の生き方を管理する神、としてよいだろう。
ギリシア・ローマの宗教が多神教であったのも、人間が助けてもらいたい分野が各人各様でちがうからであり、ユダヤ教やキリスト教が一神教であるのも、人間を管理下に置く以上は不可欠な絶対的な権威は、それをもつのが一つの神であってはじめて絶対権威になるからだ。権力でも権威でも、それが多くの人や神に分与される状態では、絶対的な存在ではなくなるからである。
P.167-168

というように、深層心理には絶対的な権威をもった対象が存在するわけですね。
この辺りの心理の成り立ちは感覚的には分かりにくいですが、理解して知っておくことも損ではないと思いました。

とまぁ、こんな感じでノンビリと読み進めていきます