[コラム]どれだけの人が・・・?

このページの左上に居る、ニコロ・マキアヴェッリ彼の人が親友のフランチェスコ・ヴェットーリに宛てた手紙があり、この手紙のことを塩野七生氏は「イタリア文学史上、最も有名で美しい手紙の一つとされているものである。」と・・・。
その中に次のような一節がある。

夜がくると、家にもどる。そして、書斎に入る。入る前に、泥やなにかで汚れた毎日の服を脱ぎ、官服を身に着ける。
 礼儀をわきまえた服装に身をととのえてから、古の人々のいる、古の宮廷に参上する。そこでは、わたしは、彼らから親切にむかえられ、あの食物、わたしだけのための、そのためにわたしは生をうけた、食物を食すのだ。そこでのわたしは、恥ずかしがりもせずに彼らと話し、彼らの行為の理由をたずねる。彼らも人間らしさをあらわにして答えてくれる。
 四時間というもの、まったくたいくつを感じない。すべての苦悩は忘れ、貧乏も怖れなくなり、死への恐怖も感じなくなる。彼らの世界に、全身全霊で移り棲んでしまうからだ。

塩野七生 「わが友マキアヴェッリ―フィレンツェ存亡 (塩野七生ルネサンス著作集)」より引用

とある。今の私もそんな心境だ。この時間、子供や妻家の者すべてが寝静まりようやく私の時間を持つことが出来る。私もその日の出来事を整理しながらPCの前に座り、この世界にやってくる。そこでは皆さんの言説に触れながら、マキアヴェッリのごとく「彼らと話、尋ね、答えを求める」まったく飽きることの無い濃密な時間を過ごすことが出来る数時間だ。

また、昨日読み終えた佐藤優氏の「私のマルクス」の中に佐藤氏とその友人の一人である斎藤氏とのこんなやり取りがある

斎藤氏:「僕が学生運動に関与した理由は、そんなことでもしないと、大学のゼミ以外では誰とも、一言も会話をせずに大学生活が終わってしまうと思ったからだ。君は恐らく僕の言うことを本気でとらえなかったと思う。しかし、これは本当なんだ。」

佐藤氏:「よくわからん。斎藤は対人恐怖症なのか」

斎藤氏:「対人恐怖症とは違うと思う。むしろ、自分が他の人に理解されないんじゃないかという恐れが強いんだと思う。中途半端な理解しかしてくれないような友だちはいらない。」

前述書 P.276より

とあるのだが、この斎藤氏の心境も私は十分に理解できる。私も同じような考えを持ち、本当の意味での「自分」をさらけ出すやり取りをするような「友だち」は、ほとんどいない。否、私が作ってこなかっただけかもしれない。自分自身にも理由が有るのだろうけど、中々そういうお互いの底の底まで理解し合える相手とは巡り合う機会は人生において少ない。一体どれほどの人たちが、上っ面だけの付き合いでなく腹を割って話し合える相手を得ることが出来るのだろう?
今は未だリアルな身近ではその存在を知ることはないが、ウェブ世界においては姿は見えないがその存在を認めることが出来る。それがせめてもの救いだ。