ユダヤ・キリスト教的な時間概念 時間の果てにある世界


いつものナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき (朝日文庫)からの気になった部分のメモ

魚住:仏教的な価値観がベースある日本的な時間は、円環*1をなすものですが、それとは違うんですか。


佐藤:ええ、違います。ユダヤ・キリスト教的な時間概念、つまり西欧的な時間は「直線」*2なんです。始まりがあって終わりがある。終末をギリシャ語で「テロス」と言います。これは「終わり」のほか、「目的」「完成」という三つの概念が含まれていて、区別ができません。終わりに向かって進んでいるということは、必然的に目的を伴い、それゆえ何らかの完成があるという発想なんです。


魚住:意志的というか、あいまいさが許されそうにない時間概念ですね。


佐藤:そう言えるでしょう。直線的な時間は二つに分かれます。時計の秒針が動くように刻々と経っていくような時間軸を「クロノス」と言います。対して、“タイミングがいい、タイミングが悪い”こんな感覚を「カイロス」と言います。同じ一日でも、たとえば、運命の人との出会いがあって、その後結婚した。その「出会い」は、ある人の人生にとっては重大なことですから、クロノスで計れる時間はなく、カイロスなんですね。あるいは広島・長崎に原爆が投下された「とき」もカイロスです。クロノスの上で私たちは泳いでいるようにみえますが、時々カイロスの介入があって、断絶するんですよ。その断絶が「出来事」です。カイロスの断片と言ってもいい。それをつなぎあわせたものが「歴史」だと考えます。ユダヤ・キリスト教では、カイロスとカイロスの間、中間時に住んでいるという感覚なんです。


魚住:どういことですか。


佐藤:ユダヤ・キリスト教においては、始まりのところでは人間はいきなり堕落(*3してしまいますよね。それで原罪を負うことになりました。その時点から終末に向かって回復していくという考え方なのです。いまの人間はその途上にあるということになります。ですが、ユダヤ・キリスト教という宗教的な観点においては、直線的な時間以上に大切な世界があるんですよ。


魚住:ええ?


佐藤:彼らにとって究極的に意味がある世界は、時間、言い換えれば歴史が終わった後に訪れます。歴史が終わると、死者はすべて復活して、最後の審判を受けなければならないんですね。それで永遠の生を享けて楽園に行くのか、地獄に落ちるのか、分けられてしまうのです。これがたいへん重要なのです。
P68-P.70


「いきなり堕落している」、そして堕ちて、堕ちて、堕ちて行って最後の時をまっているという発想はなかなかピンとこないものはある。
「カイロス」と「クロノス」の考え方も面白いと思う。
こういった基本ベースを知ることは重要だと思うな。

*1:引用者注:四季がある世界で成立したからだそうです

*2:引用者注:四季変化の無い荒れ野で成立した宗教だからだそうです

*3:引用者注:神に対してアダムとイブが“嘘をついた”ということみたいです