絶対に正しいものは複数ある

ナショナリズムという迷宮 ラスプーチンかく語りき (朝日文庫)より

佐藤:“美しい”というのは、ヘーゲルの体系でもシェリングの体系でも、感覚によって世界を把握できるという感性論なんです。悟性や理性を乗り越えていく力が感性にはあるということ。ドイツ古典哲学は最終的に美学に至るんですが、対象に触れて瞬時にすべてのことがわかるんだという美学と全体主義はとても近いところにあるんです。ドイツ文学者で、右派、国家主義陣営の論客である西尾幹二さんが言っているように、ファシズムはきらびやかな衣装を見に着けるというのが、それを象徴していると思いますよ。その美とは、ファシズムの外側にいる人にはグロテスクに見える。一方で、内側にいる人には美そのものだと。逆に、プロレタリアリズムが、その内側にいる人には美に見えても、外側にいる人にはグロテスクに映るのと一緒だということです。


魚住:それは“思想とは何か”という話と同じですよね。


佐藤:その通りです。所与の状況を自明なものとして疑問を持たないというのが主流の“思想”です。私たちの目標としては、そうした“思想”にとらわれないあり方を求める。かつ、“対抗思想”―――あさま山荘事件オウム真理教事件はその帰結という面がありますよね―――にも、がんじがらめにならないようにするにはどうすればいいのか。こう言っておいてひっくり返すようですが、人間は思想からは離れて生きていけないのです。なぜなら、人間には表彰能力がありますから。


魚住:じゃあ、どうしたらいいんだろう。


佐藤:思想の間を移動するしかないんですよ。私たちに残されたのは。絶対に正しいものはあってもいいんです。ただし、それは複数あるんです。しかも、それら複数の絶対に正しいことは権利的に同格なんです。例外は、人を殺すなど他者に危害を加えること。その場合は、権利的に同格とは言えなくなります。これを除けば、あとは曖昧でいいのではないかという態度。そもそも、思想を批判すること自体が難しいことなんです。自分たちが何を考えているのかということを“対象”として把握することって難しいと思いませんか。


魚住:そうですね


佐藤:たとえば、靖国問題で戦没者の慰霊に関し、哲学者の高橋哲哉さんが言うように、追悼の第一の主体は遺族だと。一見、すばらしいように思えますが、家族ではないけれども将来を誓い合った仲の恋人は追悼の第一の主体にはなれないのか。あるいは戦没者が特定の宗教団体に加わっていたら、そのメンバーに追悼の権利はあるのではないか。こういう議論が権利的に同格で成り立つんです。国家だって追悼の主体としては権利的に同格なはずです。その主体に優先順位をつけられるものでしょうか。


魚住:難しい問題ですね。いまの佐藤さんのお話を言い換えるならば、誰もが納得する“すごくいいものがあるはずだ”ではなく、せいぜい、“ましなものがある”くらいに考えるということなのかなあ。


佐藤:そういうことでいいと思いますよ。世の中、ろくでもないものしかない。国家だって民族だってろくなもんじゃない。しかし、ろくでもないものの中をうまく歩いていかねばならない。繰り返しますが、重要なのは、絶対に正しいものはあるかもしれない。ただし、それは誰にとっても正しいものではなく、ある特定の集団にとっての正しいものであるに過ぎないということ。そうした絶対に正しいものは複数あるんだと。あとは、私たちがその想像力をどこまで持てるかということだと思うんですけどね。
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